昭和45年7月28日 朝の御理解
御神訓
一 わが信心する神ばかり尊みてほかの神を侮ることなかれ。
よく皆さんが、えー、合楽に御神縁を頂いておったということは、ほんとに有難いと、「ね」。いうふうによく言われますがね、ほんとに、そのうらには、沢山教会がありますが、沢山な教会に御神縁を頂かんでおって良かったと、合楽であって良かったと。私ね、そこにはすでに、合楽は尊いけれども、ほかの教会は尊くないといったようなものが、あるような感じが致しますですね。えー、なるほど、合楽には合楽の良さがありましょう。また、ほかの教会にはほかの教会の、それなりと、なり、よいものが、やはりあるはずです。「ね」。特に、宗教者の中に、そういうような、ものがあってはならないと思うのですけれども、いわゆる、我田引水という事を申しますね。自分の宗旨、自分の宗派が一番良いものであって、ほかの宗旨、宗派はもう、枝葉のようなものである、つまらんものである。自分の宗旨が一番立派なものである、というわけですね。いわゆる、我田引水であります。大体言うたら、信心者、いわゆる宗教者が言うことじゃないと思うですねえ。けれども、宗教者にそれが多い。中には、もう、ほかの宗旨宗派は、みんな嘘だと。いいや、邪宗だ、邪派だとさえ、こき下ろして、自分の、おー、頂いておる宗旨を、もう、世界にこれ一つしか本当のものはないといったような、言い方をする宗教すらあるくらい。「ね」。まことにもって、言語道断ですね。信心、宗教というものはどういうものか。私は、問題は、結局は人間が幸せになって行く道を教える。人間が、まあ、幸せになって行くということは、あー、真に有難いという気持ちを開いての、日常、日々の生活が出ける。それが、もう少し言うと、あの世、この世を通して、安心の大みかげを頂かせて頂けれるという、そこに、信心の、宗教の一つの使命というものが私はあると思うのですよね。ですから、そこのところを、私共は、御道の信心さして頂くものは、間違えてはならない。
教祖の神様の、おー、御時代に御広前に参り合わせた、幾人もの方達が、色々と信心の、四方山話をしておった。えー、何々宗はどうだ、何々派は何だと、言うように、もう、ほんとに金光様のご信心を頂いておって良かった。他所の宗旨、宗派のおー、悪口を話しておったら、途端に、教祖の神様の、いわゆる、気色が悪くなった。お顔の色がその、非常に厳しくなられた。それで、まあ、話しよったものが、気が付いて、あの、金光様の、んー、ご様子を見るとです。神様が、金光様が、その事を話しておるものを見てから仰られた。んー、耶蘇であろうが釈迦であろうがね、天地金の神の氏子ぞと仰った。「ね」。その、氏子のことをです、「ね」。あの子は良いの、ここは悪いのと、ま、言うておることを聞いて、親が喜ぶはずがないじゃないかと。これを習っていることが、御伝記に残っております。「ね」。いわゆる、教祖様の、おー、一つの神官と申しますかね、というものは、皆が天地金の神の氏子としての見方をなさっておられます。ですから、どれが本当で、どれが本当ではない。あれが良くて、これが悪いと言うことは無い。それなりに、そこに一つの帰依というものがあって、帰依してその人が助かって行っておるなら、それで良いんだと、言うわけなんですよね。私共は、えてして、そういう、えー、この頃は、あまりに金光教の信心が、なるほど素晴らしい、その奥がある、極めていけば行くほど素晴らしい。素晴らしければ素晴らしいほど、ほかのが、いわば、あー、素晴らしくなく見えてくるというのも、当然ですけれども、やはり、私共は、金光教の教祖が教えられたことを、深めていく。他の宗旨の方は、やはり、その宗旨、宗派は違っても、それを深めていくと、やはり他の宗旨、宗派は物足りないということになるのかも知れませんですよね。その辺のところを、戒めてもらえると、こう思います。同時に、私は、今日、ここのところに、我が信ずる神ばかりという風に仰ってられますけれども、そんなら、同じ金光教の信心を、同じ教祖金光様の御取次ぎを頂いて、天地金の神様の教えを頂くのでございますが、えー、ほんとに、この神様はですね、少しでも、本当のことを信じて疑わず、信心を進めてまいりますと、おかげを受けられるというですねえ。そこに、おかげを受けるから、自分のが、いよいよ本当のものだと、として、例えば、他の行き方を降ろしたり、嘘のように言うたりするということも、これは、間違えたところである。例えば、同じ神様を拝んでおってもです。自分が頂いておるところだけが、ほんなもんだという。「ね」。座頭さんたちが集まってね、えー、象という、その動物がおるが、象という動物はね、あのー、どういうような形をしておるかと。というので、象を見に行くわけじゃない、メクラさんですから。座頭さんですから。見えませんけれども、それぞれがその、大きな象を手で触ってみて、ははー、象というのは、まるきりこれは臼のようなもんだなと思うた座頭さんもあった。「ね」。お尻のにきをこう、臼のようだとこういう。鼻のにきを当たった人は、こらまあ、まるきりこれは、ながーいもんだなあと、こう思う。「ね」。足をこう触ってみて、まるきり柱だなと思うたと、こういうわけです。そして、象とは、臼のようだ。いいや、柱のようにしてるんだとか。そんなことはないよ、長い看板だというたふうに言ったという笑い話がありますけれどね。
私は、よく信徒会なんかの共励会なんかに参りますとね、そういうようなものを感じるんです。「ね」。同じ金光様をいただきながらです、あーでもない、こーでもないと、おー、いわゆる、論を戦わせておるということ。なるほど、戦わすことは向上ですけれども、なるほど、私は、その人の言うておることの中にもです、やはり、認めるところは認め、有難いものは有難いものとして頂いてこそ、共励の値打ちがあるということ。ただ、自分のだけが本当だということは、丁度、とても、私共が天地金の神というような、大きな神様をです、「ね」。えー、そんなに自分たちの小さい信心で表現出来るはずはないんです。「ね」。例えて申しますと、昨日の御理解などは「ね」。ご地内をみだりにけがすなよと、御教えを頂いて、ご地内をみだりに汚さない、いや、それを清めるということだけに、焦点を置いて、えー、行じて行かれる婦人のおかげを受けておられた話を致しましたけどね。だから、金光様のご信心ち言や、もう、それだけで良いという訳はないのです。「ね」。
甘木の初代なんかはもう、それこそ、徹頭徹尾、いわば、天地の御恩徳を説かれた。「ね」。いわゆる、そのー、それでやはり、沢山の人がおかげを頂いた。「ね」。甘木、えー、大阪の玉水の井川先生は、えー、あちらは、大阪というところは、商売人の集まっておる街ですからね、もう、ほとんどが、商売の行き詰まりとか、いわゆる、経済的な難儀のお取次ぎをなさり、おかげを受けられる。そこで、その、まあ、井川先生のご信心の深さといい、広さというのは、私共には分からんけれども、まあ、玉水というたら、「ね」。あの、願いの玉水、お礼の甘木と、当時言われたくらい、全然違う。もう、甘木は天地の御恩徳を「ね」。説いて説いて、説き明かされて、もう、兎に角、もう、御礼ばい、御礼ばいと言うて御礼の心を作らせなさった。「ね」。一すくいの水の御恩徳を説かれた。その、例えば、その御礼を説かれ。御礼、御礼と御礼を強調された。だから、当時、「ね」。お礼の甘木と言うた。ところが、泉尾じゃない、玉水の井川先生のところでは、もう、一にも願い、もう、願って願って願い抜けというのである。だから、願いの玉水と言われるほどしに、そこに一つの型が出けておる。「ね」。だからその、願ってさえおれば良いと、お礼さえ言うておれば良いと。どちらがどうのと言うことはないのです。「ね」。そこで、ほんならこれは、まあ、第三者の私共が、それをまあ、見たり、聞いたりさせて頂いてです。なるほど、お礼も大事だなあ、願うということも、また尚、大事だなと。いや、願わねければおられんのが私達だからと、分かるわけです。「ね」。
または、お詫びの信心一本で、おかげを受けておるという教会もあります。合楽なんかはその、お詫びに徹するとまでは行かんでも、非常に強いですね、お詫びがをする。お詫びして、詫びて詫びて、詫び抜かせて貰う。そこから、詫びれば許してやるとの親心に触れて、おかげを頂いて行こうという訳なんです。「ね」。それが、ここでは、非常に、この、教えを頂いて、教えを鏡として、自分というものをギリギリ見極める。いわゆる、くずの子の自覚、「ね」。を、ここでは強調致しますですね。何にも、いわゆる、障子一重がままならぬ営みであるという自覚。もう、私のような汚い、私のようなつまらん、「ね」。というように、あの、詫びていくわけですね。詫びる。自分というものが分かっていくところに、詫びていく。そこから、信心の姿勢を基本としているように思うんですね、ここでは。ですから、いわば、教祖の教えて下さる御道の信心の、実意丁寧という言葉が、一番身に付けられる感じがしますね。詫びる姿勢、実意丁寧神信心、「ね」。いわゆる、本当の自分の実態が分かるといわれるのです。ようも、ようも自分のようなものに、神様が、このようなおかげを下さるということ。「ね」。いわゆる、自分を見極める。それを、自分を掘り下げるというふうにも申します。だから、不平など言う資格が無い。とても、とても勿体のうして、不足なんか言われん、というのが、まあ、合楽の行き方。だからこそ、例えば、どういうような、いやな問題であっても、難儀な問題であっても、それがたの資格しかない私なのだと、頂くわけですね、ここでは。これほど信心するのになんていうような横着な考えはいかん。「ね」。例えば難儀をそこに、目の前に致しましてもです。「ね」。それを、当然受けなければならないほどしの私なのだ。だから、成り行きを大事にして、合掌して受けて行こうという姿勢が生まれたわけなのです。「ね」。ですから、現在頂いておる、お互いのおかげというものはです、それを、進めての、神様のお取り計らいであり、または、神愛であるとして頂いて行く、「ね」。神様が、病気やら、災難やら、あー、起こさせなさるはずは無い。「ね」。神様は好んでなさる訳はないけれどもです。現実においては、病気もありゃ、災難もある。信心しよってもあるんです。「ね」。だから、そこのところの受け方がです。「ね」。お詫びに徹する、「ね」。その詫びなければおられない自分というものを見極めなければ、詫びすらが出来ん。「ね」。どんなに、例えば、人から、ま、軽蔑されてもです、どういう生き返りをするかと言うて、突っかかっていくのではなくてです、「ね」。
先日も、ある方が、もう、深刻、深刻なその悩み、もう、そのためにもう、この世をはかないものに思うて、もう、何時死のうかと、死ぬることばっかり考えたという方が、毎日参ってきておる。「ね」。話を聞けば、本当に腹も立とう、情けなくもあろう、どうでもこれだけは、一つ明らかにして、相手に、そういう事を言うた人に、「ね」。頭を下げさせなければおかれんような事であるけれどもです。私は、ここでそれを、(おじょうごしゃったときに?)、言いなさんな、言いなさんなと私が申しました。言うたらつまらんばいと。言うたらいけんよと。今。丁度一週間ぐらい、お参りになられます。最近では、毎朝の御理解を開きながら、心が開けてきた。「ね」。まあだ、言わんでおってよかったとまではいかんにしてもです、「ね」。いわゆる、生きる希望というようなものが段々、出来てきた。「ね」。そして、私は昨日、その事を申しましたらね。段々ね、おかげ頂いていきよるとね、「ね」。その事のおかげで、あんたほうら、合楽に参ってきたじゃないね。その事のおかげで、あんたがこれから、新たな生きる、本当の幸せになれれる道を、これから体得するとに、その人は、あんたの恩人、いや、その人こそが、天地の親神様のお姿であったということにすらなってくる。ようも、ああいう、例えば、「ね」。恥ずかしみを受けたけれどもです、「ね」。身に覚えのないような恥ずかしみを、それこそ、受けたけれども、その人のおかげでです。「ね」。金光様のご信心を改めて頂くことが出けて、その事にお礼が言えれるじゃないかというような事を申しました。人間て言うものは、そんなもんですねえ。お芝居なんかでやります、あの鏡やなんかがつく、あの鏡山。「ね」。有名なあの、刑場のお初が敵討ちをするお芝居なんです。「ね」。いわゆる、あの、町人上がりの、おー、尾上という、いわゆる御殿女中がおります、「ね」。その上役の御殿女中から、恥ずかしみを受ける。「ね」。だから、その恥ずかしみを受ける為にです。もう、この世に生きる望みをなくして、いわば、自害して果てるというのが鏡山の筋です、「ね」。それを(りずの?)お初が、んー、見事に敵討ちをして、二代目尾上になるという筋なんですけれどね。だから、結局、ほんなら、尾上自体に信心がもしあったらです。「ね」。根も葉もないことですから、自害することはいらんとじゃもん。「ね」。本当言うたらです、「ね」。だから、結局その、お初から言うとですね、いわ富士は、憎い敵でしたけれども、それこそ、いわ富士様々です。いわ富士のおかげで、また、女中から一躍、御殿女中に取り立てられたということ。「ね」。信心は、そこんところがです。ほんとに分かって行くんです。憎いと思うたり、「ね」。情けないと思うておる、その情けないと思う、その事が、その事が神愛と分かるということ。だから、結局その、自分自身というものを、見極めておらなければ出来ることじゃない。その事を、合掌して、受けていくということは出来る。だから、合楽の場合は、もう、ここんところに、いわば、徹頭徹尾お互いの信心を納めていくわけなんですね。その事のおかげで、ということになってくる。ですからもう、大体、えー、その、結論いたしますとですね。願って願って、願い抜いておかげを頂くということもです、「ね」。または、御礼に徹して、おかげを頂くということもです、詫びて詫びて、詫び抜かせて貰うて、おかげを頂くということもです、同じことなんです。出てくる答えは同じ。「ね」。言うなら、天地の親神様の心にその詫びが叶うた、その御礼を受けられた、「ね」。一心に願う、その願う心情を神様が受けられた。よって、天地の親神様に通ずる、いわば、交流する、その一つの手段なのだ。「ね」。ま、それを私はです、「ね」。言うなら、この、詫び抜いていくという、信心こそ、教祖様が、あー、教えておられる、実意丁寧のそれに、一番ぴったりだというふうに、まあ、確信しているわけです。だから、願って、願ってなんていうのは間違いだろう。ただ、御礼、御礼ち言う、天地の御恩徳だけではいけないのだ、とは思わない。「ね」。やはり、ほんなら私共でも、願って願って、願い抜く場合もあるし、御礼に徹する場合もあるけれども、その、中心をなすものは、ま、合楽の場合はお詫びのように思う。そんために自分が分かる。そんために、話を聞かなければ分からん。そして、こんな事言われるごたるなら、死んだほうがましと言ったような思い方がです、「ね」。心が開けて来るにしたがって、その事に対して、本当に心から御礼を申し上げる心になれたときに、それは神様へ通じるでしょう。ほんとの事が分かったらですけども。ですからね、私共は、今日、我が信ずる神ばかりをと、ここにその言うてあります。我が信ずる事ばかりを、ということではいけないち言うこと。「ね」。例えば、それこそ、甘木あたりが、ああした時代、ごひれいを輝かされた。それこそ、その時代をやはり、風靡された。「ね」。いわゆる、玉水さんでも同じことである。「ね」。当時日本一といわれるほどしの、ごひれいを輝かされた。「ね」。願って、礼を言うてと、言うことなんでありますけれども、「ね」。それだけの、例えば、ひれいというものをです、表された。「ね」。ということにはです。やはり、本当のものだということがあったからなんです。「ね」。まだ、私共の場合は、まだ、「ね」。いわばこの程度のことなんですけれどもです。「ね」。なるほど、合楽で言うておる、成り行きを大切にするとか、成り行きを尊ぶとか言うことがです。「ね」。詫びの精神から、詫びというのは、お詫びをするの詫びですよ。お詫びをする、徹底したお詫びから、それは、受けなければおられないと。受けなければ勿体ないと。いや、それは、丁度私が受ける、私の身分に相応したものなんです。現在、貧乏しているというてもそうなんです。辱しめを受けると言うてもそうなんです。辱しめを受けるほどしの私なのだと。現実に自分というものをです、「ね」。それこそ、顕微鏡で眺めるように、自分を眺めてみるときにです。あったあった、こういう辱しめを受けなければならない元があった、難儀をしなければならないものがあったというのが、合楽の行き方なんだから。そこんところを、ただ、受けていく、合掌して受けていくとこういう。「ね」。そこから、おかげを、こうやって打ち立てていこうと思います。だからもう、えー、そういう、例えば、まだこれから、おかげを受けていかねばなりませんが、ほんなら、おかげを受けておるから、勿論、本当だということだけでもないと思う。
私今日、こういう信心であらせて頂いたらね、牛蒡のね、牛蒡の葉っぱが、こう伸びておるところを頂いた。牛蒡というのは、まあ、ここでお知らせ、長く苦労しておるとこう申しますねえ。長く、苦労するでしょう。いわゆる、長い修行によって、その牛蒡というのは、「ね」。様々な、料理向きにでも、いろんな料理むきがある。勿論、祝儀ごとなんかには、必ず牛蒡を使う。なおさら、仏事事にも使う。「ね」。もう、がめ煮でもするときは、絶対に牛蒡がなからねばならぬほどしに、その御用の範囲は広い。それからと言うて、日々のほんなら、お弁当のお菜なんかにも、また、日々の惣菜にも、御用の向きが非常に広いということは、「ね」。なんでも同じことのように、やはり、信心の、一苦労、一修行した人はです。「ね」。一修行して、それが、おかげを受けた暁には非常に、どのようなことにでも、御用に使われる。「ね」。という意味合いのときに頂く御理解なんですけれどね。
さあ、教会に金入りの事があるというたら、「はい」それは私が一人ででもおかげいただきましょうと言えれるような、一丁おかげいただかにゃいかん。「ね」。身体で、頭脳で、「ね」。いわゆる、どんな御用にでも、むせんだけの健康な心と、健全な頭脳と、を、やはりおかげ受けなけねばならぬ。「ね」。いわゆる、どのような御用にでも立たせて頂けれる。世のお役に立たせて頂くということがねえ。今年の焦点というのは。世のお役に立たせてくださいという、祈りを持って、皆さんは修行しておられる。この修行が、一つの、成就になったときにです。「ね」。どのようなことにでも、お使い回しの頂けれる、私になる。その時が、おかげを受けた人の姿ということになる。ところがです、今度はその牛蒡がね、今日私が頂いたときに、こう、芽が出てから、葉が茂っている。牛蒡っていうのは、段々、こう、芽が出てくるとですね、中には簾(す)がほげて来るわけです。いうなら、葉ばかりならば立派だけれども、はばかりながらが立派になって行きよるにしたがって、中身は空になっていきよるということです。私は、今日、その事を頂いて、はっとするほどに感じることがあったんです。はー、合楽でも、こうやって、いうなら、おかげおかげと言うて、おかげを頂いておるが、「ね」。まあ、いうなら、はばかりながらというほどしのおかげも頂いておりません、まあだね。「ね」。合楽の場合は、まだまだ、少し、まだまだ、先のことでしょうけれどもです、この調子で、段々、おかげを頂いていったら、必ず一遍は、これが空になることがあると、中身が。「ね」。初代の時には、先代の時には、もう、大変なごひれいを頂かれた教会。二代になられたら、三代になられたら、なるほど、まあだ、信者さんは残っておるに致しましてもです。「ね」。中身の無い。先日も私は、ある御信者さん、他所のご信者さんから聞かせて頂いた。まあ、当時、やはり日本一と言われるほどしの立派な教会のご信者さんなんです。そこの、やはり、いー、ま、中心になっておかげを頂いておられる方なんですけれども、もう、合楽の内容は、もう聞いてびっくりしますち言うて言われた。特に合楽の経済のことなんかを聞かせてもらうと、もう、ほんとに、こういう教会は、もう、先ず、日本のどこに行ったちゃなかろうち言われる。「ね」。経済的に、裕福だという意味じゃないです。その、財の取り扱いということに対してです、もう、ガラス張りもガラス張り、もう、このように見事なガラス張りのところは無かろうということ。私の頂いておる教会では、見かけこそ、あげんしとるばってん、そら、もう、ここまでの話ばってん、様(ざま)なかち言われる。(はっ)もう、中身がなくなってきておる。「ね」。牛蒡の葉がこう出てしもうてから、「ね」。葉が出とるけん、まあだ、おかげ頂いとるごたるけれども、もう、葉が枯れるころには、もう、葉もなからなければ、いや牛蒡自体も役に立たない。そこで、本気で、気付かせて頂いてです。また、新たな、いわば、牛蒡が巻かれていく、育てられて行きよるというような、おかげを頂かんといけないことである。なら、合楽なんかでも同じことが言えます。なるほど、段々、おかげを頂いていきよる。「ね」。けれどもね、けれども、何時かは葉ばかりのことになってくることである。なら、それは、今でもそれを、感じんわけにいかないことも、やはりある。こらもう、はよ、一丁、蒔いとかにゃいかんぞという、けどじゃ、まあだね。ま、いわば、中が、簾がほげてしまわな、空っぽになってしまう前に、新たな修行に一つ取り組まにゃいけないぞと。牛蒡ということは、修行ということ。空になってからじゃ、もうおそか。気付かんが出来る。今のうちに、本気で、また、新たな修行をさせていただかにゃいけんというように、私は感じましたんですけどね。ですから、あー、おかげを受けておるという事実。「ね」。それは、例えば、詫びから入っても良し、礼から入っても良し、願いから入ってもよいのです。「ね」。けれども、どれが本当で、どれが本当ではないと。「ね」。ところが、得てしてやはり、甘木の人は、甘木の信心が一番よいように言う。玉水の人は、玉水でなからねばならんように言う。また、合楽の人は、合楽に御神縁を頂いてよかった、他所の教会にどん、おかげいただいとかんで良かったというふうなことを、やっぱり言う。「ね」。だから、それではあまりに小さい。「ね」。象の足を撫でては、「ね」。お尻を撫でては、柱のようだ、臼のようだと言うておるようなことですから、もう少し、私共は、高い大きな見地に立っての金光教。「ね」。まあ、金光教というよりも、なら、世界の宗教と言うてもいいでしょうね、あらゆる。そして、結局、「ね」。人が助かるという事。人が助かることさえ出来ればという、助かりの生き生きとした働きを持つ宗教なら、それは何宗だっていいじゃないか。何派だっていいではないか。ただ、自分のが立派で、他所のは、間違い。あれは邪宗だ邪派だといったようなことを言うてはならない。神を、そういう他の神を侮る事なかれということは、そういうことだと思います。「ね」。それを、今日、私は、とり わけ、ほんなら、御道の信心の中にでもです、「ね」。甘木が本当だ。玉水が本当だ。いいや、合楽が本当だというようなことではなくて、「ね」。その真髄に触れてみると、どれでもが本当。そして、結果、答というものは同じなのだ。ですから、例えば、詫びも大事、礼も大事、願いも大事。そこんところの、例えば、素晴らしいところは、自分のところに、他所のを頂かせてもらうだけの、一つゆとりを持っての信心。「ね」。まして、他宗他派のことを、色々、悪口を言うてなことは、もちろん、言語道断。第一教祖様のお人柄に対してですね。んー、そむくことになる。「ね」。ですから、私共は、そういう、だから、そういう意味の事をですね、えー、また、金光教は悪口を言われる元にもなるわけなんですけどね。まあ、いうなら、当たらず触らずだといったようなね。だから、そういうようなものではなくて、その芯には、しっかりとした芯というものを持っておる。例えば、芯は、甘木なら、お礼であろうし。なら、私共は、いわば、いよいよ詫びに徹しさしてもらう自分。そこから、成り行きをいよいよ大事にさして頂けれる、その芯というものがあってです。そこから、礼の信心も、また、願いの信心も、体得していかなければならないと思いますね。どうぞ。